2003.7 改訂
1.はじめに−英語能力の重要性
 現在では、英語能力なしでは研究を進めることは事実上不可能です。日常的に読み書きする論文は英語であり、国際学会でなくても日本国内の学会でも研究内容を英語で発表する機会が増えています。外資系企業では当然のことですが、日本の企業でもビジネスチャンスを逃さないためには専門知識を持った人が英語で交渉する必要性が高まっています。外国のVB企業などから新技術の売り込みは多く、いちいち通訳を介していたら大変です。私は学生に対しては英語能力を高める必要性を常に説いています。しかし、彼らは読み書きについては十分な教育を受けているにもかかわらず、英語論文を読みこなすには最初にある程度の時間と努力を必要とします。さらに彼らが最初に書く英語論文は驚くほど稚拙であり、英語での会話(コミュニケーション)能力は惨めなものです。どうしてでしょうか?

 英語によるコミュニケーション能力が重要なことは研究者に限りません。国際的なビジネスに直接関係しなくてもインターネット等の発達により窓口は常に世界に繋がっていますし、スポーツの世界でも国際交流は盛んです。書店には英語に関する書籍がかなりのスペースを占め、パソコンソフト、英会話教室、さまざまな英語教材が巷間に溢れています。しかし、こうして皆が英語能力の必要性を実感しているにもかかわらず、全体的にはあまり進歩していないように感じます。さらに、何年も英語教育を受けても実践能力が身に付かないので、現状の英語教育を批判する声もあります。

 私は英語教育に関しては門外漢ですが、日頃考えている「現状を打開するための提言」を以下に述べます。少なくとも、現在の英語授業時間数の増加や早期化を行っても英語によるコミュニケーション能力が向上することは期待できないと考えます。大学入試センター試験に英語のリスニングが課せられるようになるようですが、日本全国で一斉にかつ遺漏なく行うには大変な労力を必要とします。各試験会場の現場では周到な事前準備と当日は寿命が縮むような緊張が強いられます。入学試験は「うまくいくのが当たり前で、誰も褒めてくれない。しかし、うまく行かなかったら多大な影響を各方面に及ぼし、誰かが責任をとらなければいけない」という性質の年中行事ですが、そこにさらに英語のリスニングが加わるのです。しかもその労力があまり報われないだろうことは私から見れば明白なので、ますます憂鬱な気分になります。
2.現在の英語教育の問題点
 私が英語の教育について初めて考えたのは、米国留学した時のことです。それまでは、「英語と日本語では構文も発音も全く異なるので、日本語を母国語とする人にとって英語は難しく、逆にネイティブ英米人にとっても日本語は難しい」と漠然と感じていました。私自身の考えというよりも、その頃は私の周囲ではこうした意見が多かったと思いますし、自分があまり英語を話せないことの免罪符としていました。しかし、少なくとも後者は見事に裏切られました。アメリカの大学で僅か一学期の間、日本語の授業を選択しただけの学生が私に話しかけてきました。片言ではありますが見事な日本語でした。「五十音の全てを正しく発音できなくても、漢字を知らなくても、ひらがなが書けなくても、文法や動詞の活用を知らなくても、コミュニケーションはとれる」という現実を突きつけられました。日本で中学校から10年間も英語教育を受けてきたのに、英語は苦手科目という意識が強く、ほとんど意思の疎通が出来ない自分は惨めでした。それと同時に学校で受けた英語教育と英語でのコミュニケーションとの乖離を強く感じました。それから20年を経て、今では、学科としての英語は依然として得意ではありませんが、英語でのコミュニケーションはむしろ楽しいと感じるようになりました。

 現状では、英語に限らず小学校〜高校においては上位校の入学試験に合格することが大きな教育(到達)目標となっています。私立学校や進学塾はいわゆる有名校への入学者数を増やすことにしのぎを削っています。従って、英語教育も、英語でコミュニケーションができることよりも、入学試験に出題される「英語」に高得点することが目標になります。いわゆる入試偏重です。入学試験は選抜試験であり大部分の人が正解できる出題は意味をなさず、合否の判定(受験生の差別化)のために、複雑な文型の文章、文法の細かな点、使用頻度は低くても間違えやすい単語や例外的な活用をする動詞などが出題の対象になってしまいます。これらは『英語を用いたコミュニケーション能力』形成という観点から見ればほとんど必要のない枝葉末節ですが、大学入試に出題されるために、英語教育もこうした重箱の隅を楊枝でつつくような問題に正解することに重点が置かれます。英語でのコミュニケーションにどんなに重要な事柄であっても、皆が正解できたら試験問題、つまり英語教育、としては全く重要ではなくなってしまうのです。皆が正解できる幹の部分は出題されず、枝葉についてだけ評価されます。

 しかも、枝葉末節の出題や教育でも幹となる基礎がしっかり出来た上でなら問題ないですが、『英語を用いたコミュニケーション能力』に関しては、幹すらあいまいです。幹の部分がすらすら出てこないと、相手にうまく通じません。枝葉末節にこだわると会話の幹の部分が分からなくなります。英語圏で生活しているネイティブではない人たちの英語は文法的に正しくなくても十分に通じています。正しく発音された一つの難しい単語や文法的に正しい一つの長い文章が常に通じるわけではなく、相手が理解(想像)し易い単語や文を使うことが重要です。コミュニケーション能力の観点では、発音や文法が正しくても意思疎通ができなければ不正解です。

 このように入試における差別化の手段としての「英語」が使われ、全員合格が不可能であるため、受験生の能力が上がれば上がるほど、入試問題は難問化せざるを得ないという悪循環が生まれます。また、学生にとっては入試を突破する点数をとることが究極の目的になってしまいます。東京大学の入学試験では10年以上前から、英語のリスニング問題を課しています。これがどの程度、学生の英語のコミュニケーション能力に貢献したかについての調査はされていないと思いますが、私の印象では否定的です。入学試験における受験生の最大の目標は、合格点をとることであり、そのことにおいて彼らは素晴らしい能力を発揮します。しかし、合格した学生たちに聞いてみても、「全部理解しなくても、何となく答えがわかる」「他の問題で点数をとれば良い」など、英語の聞き取り能力向上については否定的な意見が多いような気がします。

 英語教育の現状のさらなる問題点は、恐怖条件付け学習になっていることです(この場合の学習とは、恐怖心と英語を直結することを学ぶという意味です)。差別化の手段として「英語」が使用され、しかも、英語の文章を書くときには、「大文字で始まらなければダメ」、「文末にピリオドを打ち忘れてはダメ」、「三人称単数現在にSを忘れてはダメ」、「時制が一致しなければダメ」・・・などなど、枝葉末節部分の減点主義で採点されてきました。多くの人ができていると思われる幹の部分は無視して、枝葉が問題視されます。従って、肝心の「如何に相手の意志を汲み取り、自分の意志を相手に伝えるか?」ではなく、「ミス=減点をしてはいけない」というネガティブな意識、言い換えれば枝葉末節にこだわってしまう意識が、子供の頃から刷り込まれてしまっているように思います。学生時代は試験から逃れられないために、ミスに対する恐怖は、ミスをしない(=正解する)ように努力する方向に働くかもしれませんが、社会に出れば英語(の試験)そのものから逃避する方向に働いてしまいます。ある行為をして失敗し罰を受けると行為そのものをしなくなるというのが恐怖条件付け学習です。逃避をしなくても、ミスをしてはいけないという意識は、英語を話したり書くときの躊躇となり、その状態ではスムーズな意志の疎通は期待できません。「日本人は英語が苦手だ」という意識は残念ながらこうした教育の賜だと思います。

 試験での選別に使われるという点では、他の科目でも同じです。しかし、英語とは決定的に大きな違いがあります。それは、一部の特殊な分野の人を除いて、これらの科目で学んだことを社会に出てから実践で必要としないからです。微積分、複素数、歴史年号、貿易統計、ニュートン力学などなど、ほとんどのことは忘れてしまっても、業績、給料や社会生活には全く影響しません。強いて挙げれば、漢字を知らなかったり文章が書けないと困ることがありますが、それとて入試で出題される現代国語とはレベルが違います。つまり、英語だけが社会に於いて明確な実践の場があり、評価されるのです。
3.英語でコミュニケーションをする楽しさ
 英語に限らず、本来、外国語を使ってコミュニケーションすることは非常に楽しいことです。異なった文化や価値観をもつ人と考えや気持ちを伝え合うことが出来るのです。身振り手振りを交えながら、何とか意志が通じた時の喜びは大きいはずです。考え方、歴史的背景や宗教観の違いが分かったり、共通点を見出したりできます。その過程で、コミュニケーションのためには単に自分の意見や考えを一方的に述べるのではなく、相手の立場に立って聞いたり話したりする姿勢が重要であることを理解できます。残念ながら、子供の頃から培われている恐怖条件付け学習は、コミュニケーションすることの楽しさを知る前に大きな壁となって立ちはだかります。また、外国旅行に行ったとしても日本人だけのツアーに参加したとすれば、現地の人々との交流はほとんどなく、ただ景色を眺め、お仕着せの料理を食べ、日本人相手に特化した土産物を買い、全て業者の思惑通りに出費するだけとなってしまいます。外国(人)の理解は非常に表面的になり、コミュニケーションの楽しさをしるチャンスは期待できません。

従って、英語教育は目標を『英語を用いたコミュニケーション能力養成』におき、「相手に堂々と自分の考えを話せたら、たとえ英語が文法的に間違っていても○」、「意味が伝わったら◎」、「自分の考えがうまく表現できたら◎」、「双方向の意志疎通ができたら◎」などというような絶対評価にし、コミュニケーションに対するポジティブな意識を子供の頃から植え付けるべきです。中学での到達目標は簡単な日常会話ができることにし、ミスがない画一的な"正解"を強要しないことです。意志の疎通ができたら正解であり、表現の独創性(個性)が常に尊重されるべきです。

4.私の提言
(1) 入試問題から英語をなくそう

 以上述べてきたように英語の難問を解くために、「英語」の恐怖条件付けがさらに強化されていきます。事態が『英語を用いたコミュニケーション能力養成』から遠ざかることは、自明のことです。どんなにコミュニケーション能力を重視した出題に変えたとしても、差別化の手段として使用する事態が改善されなければ、非実用的かつ非現実的なレベルまで問題の難度を上げることになってしまいます。

 それではどうしたら良いでしょうか?一つの解決策として、『入学試験から「英語」を無くす』ことが挙げられます。乱暴な発想かも知れませんが、入試に出題されなければ、枝葉末節にこだわる勉強が必要ではなくなり、コミュニケーションの能力を自由に磨くことができます。但し、入試に出題されなければ、全く勉強しなくなるという事態は十分に予想され、反対意見もその点に集約されるでしょう。その場合には、絶対評価による資格試験のようにして、英語でコミュニケーションできることを入学の要件にすることも可能だと思います。

 入試から「英語」を除外するという考えは、いわゆる"ゆとり教育"とは全く別です。いろいろ批判があっても、従来型の英語、数学、理科、社会、国語などの教育や試験によって日本を支える人材を輩出してきたことは確かです。だが、これらの学問は実生活ではほとんど役に立ちません。つまり、これらの学問は実践を重視したわけではなく、これらの学問を勉強することにより、思考力、記憶力や問題解決能力などの鍛錬を行っていたわけです。従って、「英語」にだけ実践での応用力養成を期待することには無理があります。国土が狭く、資源に乏しい日本が世界の中で頑張るには、多彩な科目を使った鍛錬により、個々の能力を高めるしか方法がないと言えます。一人一人の能力が日本の資源になるわけです。"ゆとり教育"はそれすらも放棄しようとしています。入試から「英語」を無くすということは、これらの鍛錬科目を減らすということになり、鍛錬の観点からするとデメリットとなります。さらに、英語の読み書きができる能力は、実践でも必要ですし、さまざまな分野での能力選別にも重要です。大学院入試に一科目だけ課して合格者を決定するとしたら、その科目は専門科目ではなく英語にすべきだという意見はよく耳にします。それだけ、現状の「英語」試験が個々の能力測定に適しているということでしょう。

(2) 英語学と英語を用いたコミュニケーションの分離
 それでは、『英語を用いたコミュニケーション能力』を高め、かつ「英語」を用いた鍛錬も無くさないための現実的な方策はあるでしょうか?そこで、私の次なる提言です。従来の「英語」は「英語学」として教育し、入学試験にも科する。「英語学」はひたすら英語を用いた鍛錬を行い、「英語学」を極めれば英語を用いたコミュニケーション能力が達成できるという幻想を捨て去ります。そして、英語を用いたコミュニケーション能力向上を目的とした新しい科目を新設します。名称は、例えば、「英会話」とします。当然のことながら、選抜を目的とする入学試験に英会話を科してはなりません。

 英会話と聞くと苦手意識があったり、尻込みする人が多いと思いますが、私もその一人でした。しかし、結局は人と人とのコミュニケーションであり、その手段として英語を使うにすぎないのです。従来型の英語学を究めても、入試で高得点が得られても、残念ながら英語が話せるとはかぎりません。逆に、英語学の試験で成績が悪くても、英語を使ったコミュニケーションがうまくできる可能性があります。

5.コミュニケーションは連想ゲーム
 コミュニケーションがとれるかどうかは、自分の意志が相手に伝わり、相手の考えが理解できるかどうかにかかっています。つまり、結果が全てであり、その過程で文法的に正しい英語を使ったか、発音が正確であったかどうかは問題になりません。身振り手振りだけであっても、相手に自分の意志を伝えられれば良いのです。昔のテレビ番組に連想ゲームというものがありました。ある単語を相手に言わせる(想像させる)ために、いろいろと連想できそうな単語のヒントを与えていくゲームです。その場合に重要なことは、相手の立場や現在の状況を考えて、相手が連想しやすい単語を選ぶことです。ある一つの単語から常に同じ単語が連想されるとは限りません。

 私が米国留学したのは20年以上前でしたが、出発前に先輩から「"L"と"R"の区別ができないと、レストランでミルクも注文できない。つまり、"miruku" では絶対に意味が通じない。」と脅かされました。英会話学校に行こうと思っていましたが、渡米直前の数ヶ月は超多忙で、何の準備もできずぶっつけ本番となってしまいました。しかし、米国到着後にマクドナルドで恐る恐るミルクを注文してみたところ、意外にも簡単に通じました。その時は、私の"L"の発音は素晴らしいと密かにうれしく思いました。しかし、後でゆっくり考えてみると、店員にとってミルクは予想(連想)の範囲内であり、だから通じたのではないかと思いつきました。ハンバーガーを注文し、ポテトフライも頼んだら、次は飲み物しかありません。しかも、メニューの中で "mi" で始まる飲み物はミルクだけであり、発音がおかしくても容易に想像できたわけです。後日、私の仮説を実証するために意図的に "miruku" と注文してみました。聞き返されましたがもう一度 "miruku" と繰り返すと通じました。もっとも、マクドナルドでミルクを注文する人は希有な存在でした。さらに、kohra(コーラ)と注文した場合には"Coke?"と確認はされましたが、とくに問題とはなりませんでした。

 逆に、一年ほど滞在し、ある程度自分の英語に自信を持った頃に、全く通じずに焦ったことがありました。アメリカ人と日本人が入り混じった学生のグループと一緒に、順番にカウンターでアイスクリームを注文したときのことです。学生たちは数種類の味を組み合わせてトッピングもして・・・と注文し、最後に並んでいたのが私でした。私は"普通の"アイスクリームで良かったので、咄嗟に"バニラ"と言ってしまいました。しかし、全く通じません。あまり使ったことがない単語で、BとV、LとRのどちらかも分からなかったので、適当に組み合わせて言ってみましたが、ダメです。何回かやり取りしたときに、隣で見ていた別の店員が、「vanillaって言ってるんじゃない?」ということでやっと目的のアイスクリームがもらえました。結局はアクセントが違っていたので通じなかったのだと思いますが、vanillaを注文する人が少なく、店員の想像範囲外だったことも確かです。後から思えば、plain, simple, justなどの説明を加えれば店員はもっと連想しやすかったでしょうが、その時は「私の発音が悪くて通じない」ということ以外に頭が働きませんでした。

 このように自分の言いたいことが相手にとって容易に想像できるヒントを与えることが重要です。これには日本語も英語も関係ありません。相手の立場に立ってみて、理解するためにはどのようなキーワードが必要かを考えなければなりません。私が取り組んでいる研究テーマの一つに、「海馬依存性の記憶・学習および海馬シナプス可塑性における内因性物質の役割」というものがあります。研究の意義を理解してもらうためには、いくつかの事項の解説が必要になります。そして、相手が高校生、大学院生、専門家、一般市民、お年寄りの場合で、解説しなければならない事項が当然異なってきます。ある時は、「脳の機能」や「痴呆を改善する薬」が重要であり、また、ある時は「NMDA型グルタミン酸受容体の活性化機構」や「異シナプスを介した可塑性調節」の解説が必須になります。対面でのコミュニケーションの場合には相手の反応を見ながら、解説すべき事項やその度合いが判断できるので、柔軟に対応できます。特に欧米人は表情が豊かなので、それだけで会話がスムースに進みやすい。少なくとも、日本の学生を相手にしたときのように、「分かっているのか分からないのか、私にはさっぱり分からない」ということはありません。残念ながら、文章の場合には相手の反応が分かりません。この駄文についても、自分としては分かり易く自分の考えを説明しているつもりですが・・・

6.ものまねで英会話の達人に
 英語を話すときにもう一つ重要なことは、相手の言うことをよく聴き、徹底的に真似をすることです。英会話にかぎったことではありませんが、子供は大人に比べて順応力に優れています。彼らは文法やスペルなどに全くとらわれずに、英語でのコミュニケーションを実践しています。子供同士で遊ぶときなどは、相手が使う表現を自分の耳で聞いて覚え、それを素直に真似します。誘拐などを心配して親は子供に、「知らない人に絶対についていってはダメ」と教えますが、「知らない人」の意味が大人と子供では違います。大人にとって、名前、住所、職業などを知らなければ「知らない人」ですが、子供にとってはそんなことは重要ではありません。見たり、話したりしたことが全くない人が「知らない人」です。用もなく公園をうろつく人は大人から見れば典型的な不審者ですが、子供にとっては公園でよく見かける知っている人になってしまいます。◯◯ちゃんと公園で一緒に遊ぶときに、その子の年齢、苗字や住所などはどうでも良いことなのです。大人はコミュニケーションの場においても実にしがらみが多いわけです。人と知り合うときも、相手の名前はすぐに名刺などに頼ってしまいます。そして相手の名前を呼ぶときは、スペルにこだわってしまい、聞いた通りにそのまま発音することはあまりしません。自分の耳を信じて、スペルなどは気にせずに、自分が聞こえたようにそのまま物真似をすることが重要です。英米人の言い方を真似するときに、強弱のリズム(語調)もその通りに真似ることが必須です。そして、たとえ強と強との間に発音しにくい語があったとしても、強と強の間隔は変えてはなりません。強と強のリズムを守るために、その間の弱に相当する部分は小声で適当にムニャムニャ言っても通じますが、強と強の間隔を変えてしまうと難しくなります。

 大学近くのコンビニに中国人のアルバイト店員がいますが、一向に日本語が上達しません。客が出て行くときに、「どう□ありがと△◎※@ました。またおこ☆◎×◆△ませー」と声をかけます(記号になっているところは聞き取れませんが、字数=発音の数、は合っています)。想像するところ、彼女は日本語教育をあまり受けてなく、自分が聞いたようにそのまま発音しているのでしょう。スペルを気にして常に読み書きから入ろうとする日本人には考えられないことです。彼女の英語を聞いたことはありませんが、上手く話せるのではないかと想像しています。しかし、各音が独立していて、一音違っただけで意味が異なってしまう日本語では非常に奇異に感じます。そういう意味では、日本語は英語と違うと言えます。

 オーストラリアの英語はアメリカ英語とかなり発音が異なり、戸惑うことがしばしばです。シドニーで、雨が急に降ってきたので近くにあった駅に駆け込み、窓口でホテルに電車で帰れるかどうか尋ねたところ、ホテルは駅の近くだから電車を使うと便利だと言われました。駅名を二回聞き直しましたが、「テン フー」でした。窓口の女性はフレンドリーで、あわてて駆け込んで来た私を見て、「ライニング?」と聞きました。それが、"raining"であると気づくのに時間がかかりました。とにかく、変な駅名だなと思いつつ駅舎に入り路線図を見ましたが、「テン フー」といった名前の駅は見当たりません。どちらのホームかも分からなかったので、居合わせた人に「テン フー」に行きたいがどうしたら良いか聞きました。その人は一瞬けげんそうな顔をしましたが、直ぐにホームを教えてくれ、三つ目の駅だと説明してくれました。小さな駅なので、路線図にも出ていないのではないかとあまり気にしませんでしたが、着いてみて驚きました。「Town Hall」という路線図に大きく書いてあった駅でした。オーストラリア人に「タウン ホール」が通じたかどうかは分かりませんが、スペルにこだわらずに自分の耳で聞こえた通りに発音すれば立派に通じるという経験をすることができました。

7.失敗ではなく、大きな楽しみへのステップ
 英語でのコミュニケーションは何も特殊なことをするわけではありません。意思の伝達手段として英語を使うだけです。日本語で相手をうまく説得できない人が、英語を使ったら相手を急に説得できるようになるわけがありません。同様に、日本語を話す時にうつむき加減でボソボソとしか話せない人が、英語の場合には急に明瞭に話せるわけがありません。相手の立場を考えられない人は、どんな言語を操ってもコミュニケーションは下手くそです。英会話が苦手だと思う人は、まず日本語でのコミュニケーション能力を磨く必要があります。コミュニケーションで重要なことは英語の場合でも日本語の場合でも、相手が理解しやすいようなヒントを与える(表現をする)ことです。従って、時制・動詞の変化や単数・複数などは多くの場合に重要ではなくなります。会話の最中に頭の中で英作文を行っていたら間に合いません。その時は連想に重要なキーワードから順に並べればよいわけです。

 それから何といっても重要なことは場数を踏むことです。頭の中では分かっているつもりでも、いざ話してみるとなかなかうまく表現できません。ですから積極的に経験を積むことが重要です。泳げるようになった時や自転車に乗れるようになった時のことを思い出せば分かります。誰でも、プールの水を飲んだり、転んで膝を擦りむいたりして、上達していくのです。この段階は避けて通れませんし、乗り越えなければ進歩はありません。「恥をかいた数だけ上達する」とよく言いますが、相手に通じないことを失敗だとか恥だとか思ってはいけません。中学生の時から刷り込まれている恐怖条件付けは強固であり、直ぐに昔を思い出してしまいます。意思の疎通が出来るということは非常に楽しいことであり、うまく出来れば別世界が開けることに眼を向けましょう。誰でもが経験した、英語でうまくコミュニケーションできるための一つのステップです。下手なことは気にせずに、笑顔で親しげに、相手の目を見て、自分の気持ちを一生懸命に伝えることです。難しい構文や文法などは忘れ、何でも真似をしてやれの精神で、英単語を使った連想ゲームを楽しめば良いのです。
 リスニングの能力は、話すことよりももっと経験に比例します。経験量を横軸に取り、リスニング能力を縦軸にプロットすれば、人によって傾きは違いますが、誰でも必ず右肩上がりです。しかし、高い教材の購入や英会話学校への通学は必須ではありません。日本で暮らす英米人が増えたし、CNN、衛星放送、FMラジオ、DVDソフトなどでネイティブな英語に接する機会はいくらでも作ることができます。最初はシャワーのように降りそそぐ英単語を必死に聞いていても、重要なキーワードはなかなか拾えません。しかし、我慢してその状態をくぐり抜ければ、自然に重要単語が耳に入ってくるようになります。私はアメリカンフットボールが大好きでしたので、その中継番組を見聞きすることでスピードに慣れることができました。

 「常に向上心を忘れるな」は、自戒の言葉でもあります。異国で生活するようになって半年ぐらいで、会話能力の進歩が停滞してしまう人をよく見かけます。最初は生きるためにある意味で必死ですが、半年もすると生活にも慣れ、大抵のことに困らなくなり、そこで安心してしまうことが原因でしょう。ある程度コミュニケーションの能力がついてきたら、単に意味が通じるだけで満足することなく、文化的な背景や宗教感など相手の立場や価値観を尊重する姿勢も身につけるべきです。特に宗教は日本人には理解しがたい面がありますが、大なり小なり彼らにとって生きる拠り所であり、人生を規定する絶対的な基準となっています。逆に、自分の背景を相手に分かってもらえることも重要です。お互いの文化的、宗教的背景を無視して話をしたとしても、単に日本的な発想を英語に変換しただけであり、真のコミュニケーションとは言えません。

8.幼児教育の重要性
 英語教育に対する私の考えを書き記していたはずですが、途中から英語でのコミュニケーション能力を高めたい人へのアドバイスになってしまいました。では、教える立場の人はどうしたら良いでしょうか。今まで述べてきたように、英語に対して恐怖条件付けがなされており、その英語を用いてコミュニケーションさせるという教育をしなければならない訳です。こうした条件付けを幼児期に一度刷り込まれると、容易には解消できず、生涯続く場合があります。ましてや、中年になって意を決して始めた英会話で恥をかいたとすれば、さらに恐怖条件付けが強化され、二度と戻ってこないでしょう。

 しかし、幸いなことに、英語でのコミュニケーションは入試にはありません。差別化する必要が無く、減点主義もいらないのです。「英語」に対して恐怖条件付けがなされている人に対しては、今まで学校で入試のために習ってきた「英語」とは似て非なるものであり、新しい科目(能力)を習うんだという発想転換をさせる必要があります。ネガティブな意識を持っている人に対しては、それを上回るポジティブな意識を持たせなければなりません。間違いや失敗を正すのではなく、些細なことで良いからコミュニケーション出来たことを徹底的に褒めるのです。つまり、幼児教育と同じです。コミュニケーションできる楽しさを知ってもらうことが肝要です。

9.最後に
 以上、折に触れて学生に話している英語教育および実践英会話に関する個人的な意見を述べさせていただきました。英語は私にとって全く専門外ですが、「連想ゲーム」と「ものまね」は自分なりに会得したコツです。子供の頃から英語学の恐怖条件づけが強化されている者にとって、「難しい構文や文法などは忘れ、英語を使った連想ゲームを楽しめば良いのだ」と気がついたときは肩の荷が下りた気分でした。この拙文が英会話を苦手だと思っている人の参考になれば幸いです。ご意見ご感想をお待ちしています。
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