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沿革

明治4年(1871)東京神田和泉町の東校教師としてドイツから招かれたミュルレル、ホフマン両氏は、文部卿に次ぐ地位と権限を与えられた。両氏は医師が患者に投薬する日本古来の医療慣習の危険性を指摘し、ドイツでは医学と薬学は緊密に並進する専門分科で、ドイツ式教育を実施するために、速やかな予科教師と薬学教師の招聘を要請した。明治5年政府の招きで来任した薬剤師ニーウェルト氏は薬学教授を拒み、3年間附属医院薬局業務に専従した。

一方、文部省医務局長與専斎氏は、人命及び国家経済にかかわる粗悪薬品の輸入防止対策として、ミュルレル氏らに諮り、製薬学校創設計画を進めた。明治6年(1873)7月25日付文部省布達で、第一大学区医学校に予科2年本科3年の製薬学科(全寮制)を新設、9月開校となる。これが近代薬学教育研究の源流であり、東京大学薬学部の発端である。仮教室でドイツ人教師による医・薬学科合同の予科授業が行われた。明治7年ドイツ留学から帰国した柴田承桂氏が教授となり、翌8年薬学専任教師ランガルト氏が着任した。同9年末に現在の病院外来診療棟の周辺に新築落成した近代式校舎に移った。明治10年(1877)東京大学創立に伴い、医学部製薬学科と改組する一方、2年制の通学生制度が併設された。飯盛挺造(物理)、熊沢善庵(化学)、大井玄洞(製薬学)、松原新之助(動物、植物)、勝山忠雄(調剤学)の諸氏が通学生(明治15年消滅)及び別科(3年制、13年開校20年消滅)を担当した。

製薬学科本科は明治11年1回生9名が卒業、製薬士の称号を授与されたが、製薬士は5回生で終わり全員34名に留まった。本科担当のランガルト(製薬化学)、マルチン(生薬、分析)、コルセルト(化学)3氏の任期満了後、オランダ人エイクマン氏が最後の外人教師を務め、同18年帰国した。その前年ドイツ留学帰朝の長井長義氏が1年教鞭をとった。

明治19年(1886)の学制改革に際し、製薬学科廃止の運命に遭遇したが、丹羽藤吉郎助教授の努力で、医科大学薬学科(3年制)に復活した。ドイツ留学を終えた第1回製薬士下山順一郎、丹波敬三の両教授と丹羽藤吉郎助教授の担任で開講し、明治23年薬学科第1回卒業生5名に薬学士の称号が授与された。

明治26年(1893)の講座制定により、薬学科は生薬学(下山順一郎)、衛生裁判化学(丹波敬三)、薬化学(長井長義)の3講座担任が発令された。同29年に現薬学部の南側の仮教室に移り、同39年その前通りに竣工した最新式の赤煉瓦造り2階建て859m2(260坪)の薬学本館に移転した。翌明治40年に薬品製造学講座(丹羽藤吉郎)が増設された。大正8年(1919)の学制改革で、医学部薬学科と機構を改めた。大正12年の関東大震災で、薬学本館も相当の被害を受けたが改築は見送られた。折よく震災前から定員増(20名)による増築計画が、大正12年に実現の運びになり、鉄筋コンクリート建築の地下1階地上2階延1,229m2(372坪)の東館に次いで、同14年地下1階地上2階延1,447m2(438坪)の西館が本館の両翼に竣工した。

昭和5年(1930)の臓器薬品化学講座新設に先立ち、定員35名に増員され、同17年に薬品分析化学講座が増設された。既に対英米戦に突入し、繰り上げ卒業実施の極限状況下に、薬学研究教育の使命をつらぬき終戦を迎えた。医学部薬学科は、昭和24年(1949)に成立した新制大学(4年制)に再編成され、教科目の充実化に務めた。同26年に製剤学講座、同29年に薬品作用学講座が増設され、薬学科は8講座を擁するに至った。同年旧臓器薬品化学講座は生理化学講座と改称された。

機熟して昭和33年(1958)4月、医学部薬学科は80余年の来歴に終止符を打ち、東京大学薬学部創設の新生面を開いたのである。

[中略。建物の歴史を省略]

昭和33年(1958)に独立した薬学部は薬学科(衛生裁判化学、薬化学、生薬学、薬品製造学、生理化学、薬品分析化学、製剤学、薬品作用学の8講座)1学科で開設されたが、昭和34年に製薬学科が増設された。これに伴い、薬品製造学が薬品製造化学と改称されて薬学科より製薬化学科に振替った。その後、製薬化学科は昭和35年(1960)に薬品製造工学講座が、昭和36年(1961)には微生物薬品化学講座並びに薬品物理化学講座が、さらに昭和37年(1962)には植物薬品化学講座が増設された。昭和38年(1963)講座に関する省令により衛生裁判化学講座は衛生化学・裁判化学講座に、生薬学講座は生薬学・植物化学講座に、植物薬品化学講座は薬品合成化学講座に整理改称された。昭和41年(1966)附属薬害研究施設が設置され薬害作用部門が設けられた。昭和42年(1967)には製薬化学科に薬品物理分析学講座が増設された。昭和46年(1971)には附属薬害研究施設に生体異物研究部門が増設された。昭和48年薬用植物園栽培試験場が附属薬用植物園としてその設置を認められた。昭和51年(1976)に附属薬害研究施設が廃止された。平成4年(1992)には製薬化学科に薬品分子機能学講座が増設された。

平成8年(1996)には、従来の講座を学問領域を考慮して再編成し、新しい教育研究分野にも柔軟に対応できる大講座制に移行するとともに、学部で行われるべき教育の多様化と総合化に対応するため、従来の薬学科及び製薬化学科を統合して薬学科1学科とした。大学院については、昭和40年4月より従来の化学系研究科が改組されて、薬学、製薬化学の2専門課程をもって薬学系研究科が設置され、さらに昭和51年4月に生命薬学専門課程が増設された。この専門課程は、毒性薬理学講座(薬害作用部門転換)、生体異物・免疫化学講座(生体異物研究部門転換)、薬品代謝化学講座(新設)の3講座を基幹講座とし、薬学科の衛生化学・裁判化学講座及び製薬化学科の微生物薬品化学講座を協力講座として編成された。なお、昭和62年(1987)大学院規則の改正により、「専門課程」が「専攻」と改称され、平成6年(1994)には相関医薬化学講座が増設された。

また、平成9年度(1997)には、大学院重点化により、分子薬学専攻・機能薬学専攻・生命薬学専攻の3専攻に改組し、新たに遺伝学教室および臨床薬学教室を増設した。平成13年度(2001)には、医薬経済学寄付講座および創薬理論科学寄付講座が開設された。

東京大学薬学部小史

東京大学薬学部は明治6年(1873)医学校に製薬教場が設置されたのに始まる。明治10年(1877)東京大学設置に伴って製薬学科となり、同20年(1887)医科大学薬学科となった。当初薬学研究の主力は製薬学、とくに草根木皮よりの有効成分の抽出、分類、及び、それらの構造研究におかれた。すなわち、有効成分の構造研究から、さらに類似関連化合物の合成研究が活発に行われた結果、極めて水準の高い有機化学が東京大学薬学部に開花し、明治以来の日本の有機化学の進歩は東京大学薬学部と共にあったと言ってよい。明治初年長井長義らにより創始された東大薬学の有機化学は、朝比奈泰彦教授、近藤平三郎教授、落合英二教授、津田恭介教授ら文化勲章に輝く日本有機化学の先達を生むと共に、多数の合成医薬をも創製した。しかし薬学の基礎学として有機化学のみでは充分でないことが次第に強く認識されるようになり、他の基礎学としての生物化学、物理化学の振興が望まれていたが、昭和33年(1958)医学部薬学科から薬学部として独立するに伴い、薬学科、製薬化学科の2学科制をとり、生物化学、物理化学関係の講座も充実され、創薬へのバランスのとれた体制が整えられ、これらの分野においても東京大学薬学部における研究は国際的にも極めて高く評価されるに至っている。さらに昭和41年(1966)頻発する薬害事件に鑑み、薬物と生体の相互作用を多方面から詳細に検討し、薬害対策に資するため薬害研究施設が設置されたが、この分野の研究者、技術者の養成という面をさらに強化するため、昭和51年(1976)より大学院生命薬学専門課程へと改組された。また、昭和48年(1973)千葉市畑町に薬用植物園が設けられた。

平成8年(1996)には、従来の講座を学問領域を考慮して再編成し、新しい教育研究分野にも柔軟に対応できる大講座制に移行するとともに、学部で行われるべき教育の多様化と総合化に対応するため、従来の薬学科及び製薬化学科を統合して薬学科1学科とした。

平成9年(1997)から大学院重点化が実現し、大学院薬学系研究科教官が学部教育を併任するという新しい学科目体制が発足した。

平成18年(2006)には、学校教育法・薬剤師法の改正により、従来の薬学科を廃止して、薬科学科(4年制課程)と薬学科(6年制課程)を設置した。

以上のように本学部がめざしている創薬の研究は、生命科学の中心に位置するものであり、有機化学、生物化学、物理化学の境界領域で総合的に展開するものである。本学部はこの要求に応えるべく理想的体制がとられており、広い領域の講義を聞くことができ、また勉学上の適切なアドバイスが受けられ、研究の最先端に直接触れることが出来る。

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