私の経歴は東大薬学系研究科教員の中ではちょっとユニークかもしれません。1985年に東京医科歯科大学歯学部を卒業後、同大第一口腔外科専攻生、大学院を経て1990年から3年間、 スウエーデン・ウプサラ市にあるルードヴィック癌研究所にポスドク(宮園浩平グループ長:現・東大医学部教授) として留学しました。帰国後は東京医科歯科大学口腔病理学教室・助手、(財)癌研究会癌研究所生化学部・研究員、 主任研究員を経て、1998年2月再び東京医科歯科大学に教授として戻り、2002年から2003年3月まで併任していた分子情報伝達学分野を担当しました。

大学卒業以来、四半世紀に亘りほぼ一貫して細胞内シグナル伝達(最初の約10年間はTGF-βスーパーファミリー)の解析を中心に研究生活を送ってきましたが、ここ十数年は特に物理化学的ストレスや病原体などの生物学的ストレスが細胞に受容認識され、シグナリングに変換される分子機構を中心に研究を行っています。ストレスによって細胞が死ぬ、ストレス誘導性アポトーシスのメカニズムなどは、研究室の大きなテーマのひとつです。

研究手法は、分子生物学、生化学、細胞生物学が中心となりますが、当教室の伝統でもある薬理学的ならびに生理学的アプローチもどん欲に取り入れ、「標的分子と分子機構」を解析する中で、常に「個体と疾患と創薬」を意識しながら新しい薬学の方向性を模索したいと思っています。

これまでの私達の研究内容は、一見薬学とは直接関係ないように思えるかもしれませんが、実際には多くの薬剤が生体にとって広い意味でのストレスとして働くという点を介して深いつながりをもちます。常態においてもヒトの身体はストレスで満ちあふれているといっても過言ではありません。身体の周りに存在するありとあらゆる刺激は、ある程度以上の強さもしくは長さになると不快に感じられます。日光浴も度を越せば火傷になり、健康食品も食べすぎれば毒になります。個体は細胞間の緊密なコミュニケーションを介して,刺激の種類や強さを認識・解読し、それらの変化にいかに対応するかを頭で考え、もしくは反射的に行動対処しているわけです。同様に私たちの体を構成する個々の細胞も様々な細胞環境の変化に常時曝されるとともに,それらに正確かつ迅速に反応することを要求されています。細胞は様々な刺激を細胞内外のセンサーもしくはレセプター(受容体)を介して認識し,瞬時にしてそれらの変化に対する対処方法(例えば、細胞の増殖や分化やアポトーシス)を決めなければなりません。

そのために細胞の中には、シグナリングと総称される、分子間相互作用を介した高度な細胞内情報処理システムを発達させています。そして近年の研究により、細胞の生死も実は細胞自身が内包するこのシグナリングを介して決定されることが明らかになってきました。紫外線、熱、活性酸素、浸透圧、重力そして様々な医薬品などの刺激は、限度を越えると細胞の持つシグナリング機構を利用して細胞を殺してしまいます。細胞がこのようなストレスにうまく対処できない場合、様々な疾患の原因となります。事実、癌、免疫疾患、循環器疾患、神経変性疾患など、多様な疾患の原因としてストレスシグナルの異常が極めて重要な働きをすることが明らかになりつつあります。薬学分野において、ストレスのシグナリングや細胞死の分子メカニズムを解明することは、薬剤の選択、安全性評価という観点からもたいへん重要な研究課題であるわけです。

私たちがこれまで特に注目して研究対象としてきた分子は、1997年に私たちが見いだしたASK1(Apoptosis Signal-regulating Kinase1)ならびにその類縁のASK2、ASK3と呼ばれるASKファミリー分子群です。ASK1はMAPキナーゼスーパーファミリーに属する分子であり、細胞内外の環境変化、特に様々なストレス(例えば、酸化ストレス、紫外線、浸透圧、抗癌剤、増殖因子除去等)や細胞障害性サイトカイン(TNF, FasL等)等によって活性化され、その情報をタンパク質リン酸化のカスケードを介して下流(核やその他の細胞内器官)へと伝達する役目を担っていることが明らかになってきました。そして、ASK1シグナル伝達経路が活性化された結果、細胞死や炎症性サイトカイン産生が誘導されることから、 ASK1がストレスに対する細胞応答の重要なメディエーターであることも判明しました。

さらに最近では、ASKファミリーの解析に加えて、SOD1-Derlin1系を介する小胞体ストレスやPGAM5によるミトコンドリアストレスの解析にも集中的に取り組んでいます。プロテオーム解析やゲノムワイドなsiRNAスクリーニング解析からノックアウトマウスの解析に至まで、常に「分子と細胞機能と疾患」を結びつけながら、様々なストレスが細胞に感知され、シグナルに変換される分子メカニズムとその意義の解明に迫ろうとしています。

さて、これまでの研究生活において自分がきわめて幸運であったと思うことが二つあります。ひとつは、素晴らしい師と友人、ライバル、仲間、そして学生さん達に恵まれたことです。もうひとつは、少なくとも研究に関して「報われない努力がなかった」ことです(研究以外での努力は必ずしもそうではありませんでしたが・・・)。そして、この極めて個人的な経験に基づく思い込みは、年を重ねるごとに運から信念に変わりつつあります。努力が裏切られないのが生命科学研究の特質なのかもしれません。実験・討論を通じて、教室員全員に同じ感覚を共有してもらえればと思っています。